小笠原平兵衛家と小笠原縫殿助家


 江戸時代には旗本で弓馬礼法の師範家として、小笠原平兵衛家と小笠原縫殿助家が存在します。現在の小笠原流宗家は平兵衛家になります。小笠原流は流祖長清から長経→長忠と続き、室町末期の長時・貞慶父子と受け継がれます。他方で長忠の弟に清経が居り、伊豆国の赤沢山城守となり代々赤沢姓を名乗ります。

 赤沢家が経直の代に、惣領家長時・貞慶父子は信玄に信州を追われて越後の上杉謙信の元に落ち延びます。その後に伊勢に移り同族である阿波・三好長慶に招かれ上京し、将軍義輝公の弓馬指南役となり河内国高安に領を賜ります。しかし、将軍義輝公は長慶亡き後の三好政権中枢の松永弾正と三好三人衆により殺されてしまいます。これにより長時・貞慶父子は再度越後の謙信を頼ることになりました。1578(天正6)年に謙信が病死した後は越後を去り、会津の蘆名氏の元に身を寄せます(天正11年、長時は会津で没します)。1579(天正7)年貞慶は家督を継ぎ信長に仕えて武田勝頼と戦います。天正10年に武田氏が滅亡すると、信長より信州の一部を与えられ旧領に復します。本能寺の変で信長亡き後は家康の家臣となり、松本城を与えられて大名として復帰しました。

 このように、小笠原惣領家は戦国の争乱のまぎれに弓馬の伝統が絶えたとも伝えられています。現在の小笠原宗家の小笠原氏来歴書には、「小笠原長時及貞慶の時に至り家伝弓馬的伝礼法一切を小笠原経直に譲る。経直弓馬礼法に精進せるを以つて徳川家康召して武家の礼法を司どらしむ。」とあるそうです。弓馬礼法伝来系譜には1575(天正3)年の出来事であったと記されており、京を離れて再度越後に落ち延びていた時期に当たります。
 赤沢経直は長時・貞慶父子から糾方的伝・系図・記録を受け継ぎ、赤沢の姓を小笠原の本姓に復して、小笠原流弓馬礼法の一切を掌りました。その後、1604(慶長9)年に徳川家康に拝謁し、小笠原の弓馬礼法を以て将軍家に旗本500石で仕え、大名旗本の糾方師範となりました。小笠原平兵衛家中興の祖と言われています(経直より三代後の常春が平兵衛と名乗り、代々平兵衛を名乗っていた事より)。

 ここからは縫殿助家の話をしていきたいと思います。流祖長清から長経→長忠と続く惣領家の当主が宗長の時に鎌倉幕府が滅び、宗長の子である建武武者所・貞宗の頃には南北朝時代の乱世が訪れ、貞宗は後醍醐天皇に仕えました。宗長の弟である長興は伊豆赤沢家の養子となり、長興の子常興も惣領家と同じく南朝に仕えます。後醍醐天皇は貞宗・常興を師範とし、貞宗に対しては昇殿を許すまでに至ります。また、貞宗・常興は「神伝糾方修身論64巻」という起居動静之法を定めた書物を記し、これが小笠原流の根本となる秘書となりました。この後貞宗・常興は足利氏に招かれて室町幕府に仕えることになり、貞宗の曾孫に当たる足利義満師範「長秀」は、将軍家より諸礼品節を糺すべき命を蒙り、今川氏頼・伊勢憲忠の両氏と議して「三儀一統」を現しました。「当家弓法集」といい12門より構成されています。また、「弓馬百問答」を編して家宝とし、小笠原流の基礎を固めました。この頃より、幕府即ち武家の礼を2部門に分け、伊勢氏は内向き(殿中)の諸礼を仕い、小笠原家は外向き(屋外)一切の武礼をあづかる様になりました。

 縫殿助家の話が全然出てきませんが、建武武者所・貞宗の弟に貞長が居り、別に一家を立てることになりました。この家が後世まで続き江戸時代の幕臣である小笠原縫殿助家になります。八代将軍吉宗公が騎射歩射の業を再興復古させようとして古書を集めた時には、縫殿助家から古書を多く得たと言われています。平兵衛家・縫殿助家は相助け合いながら弓馬礼法を司り、吉宗公が再興復古した新流(徳川流!?)も両家に預けられて、古流・新流の両方とも存続させて幕末を向かえます。現在の小笠原宗家である平兵衛家は存続していますが、縫殿助家は弓を離れてしまったのか、調べることが出来ませんでした。幕臣であった日置当流・吉田宗家と同じパターンですね。

(参考文献)
弓道及弓道史 浦上栄 斉藤直芳 著
弓道講座 小笠原流歩射入門 小笠原清明 斉藤直芳 著
日本武道全集 第三巻


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