日置流印西派


 私が弓道を始めたときの指導者は、日置流印西派の免許を有する人から直接指導して頂いたことがある先生であったため、自分自身は日置流印西派の門人とは名乗れませんが、日置流射法が私の弓の「核」となっております。

 Web上で良く見受ける勘違いと言いましょうか、流派の意味を全くはき違えていると言いましょうか、正面打ち起こしで一足開きであれば「小笠原流」になるとか!?。「うちの学校は小笠原流を習っています。」と言いながら「大三」をどのようにすれば・・・。なんて質問しているんですから、審査の学科勉強もしなければなりませんが、もっと勉強しなければならない事も沢山あるんじゃないのかなあと思うのです(言わんとしている事は分かるのですが・・・)。しかしながら、資料が非常に少ないという点から仕方ない事なのかもしれません。(ちなみに「大三」は日置流竹林派・本多流の考え方ですよね。)また、戦前の武徳会の学科試験では、弓道の歴史も多く出題され、現在の学科試験とは大きく異なっています。

 最初に話題に上った日置流ですが、流祖は室町末期の人物「日置弾正正次」です。この人物については諸説あり、実在しなかったとか、奥義をすべて伝授されたと言われる「吉田出雲守重賢」と同一人物であるなど、未だに「?」な人物なのです。しかし、この日置流は、近江源氏佐々木氏(六角家)の有力な家臣であった吉田家にすべて吸収され、分派を繰り返しつつ全国に広まっていきます。表題の日置流印西派もその分派した流れの1つです。いや、日置吉田流の本流であると考える事も出来ますが、それは置いておきます。
追記:最近太陽書房から販売された、「日置の源流 」- 備中足守藩吉田家弓術文書 -には、現在まで一般的であった日置流の通説を根本的に覆す、非常に貴重な資料が示されています。吉田家と葛巻家の関係や、日置弾正正次の正体、吉田助左衛門豊隆と一水軒印西・・・などなど。日置流に興味がある方は必見です!!2007.02.10)

 時代は戦国時代に突入し、日置吉田流諸派の命運は流派の宗家がついた主君によって大きく明暗を分けます。吉田宗家の主君であり、「弓術天下無双」と言われた佐々木(六角)義賢は、信長に敗れ、近江から駆逐された後も頑なに抵抗を示しますが降伏(義賢の息子である義弼も同じく降伏。)。義弼は後に豊臣秀頼に仕えて御伽衆・弓術指南役となるも、名門六角家は近江を永遠に失います。主家を失った吉田一門は近江を離れる事になり、各々各地を転々として任官先を探したのです。吉田宗家については、その後も様々な不運が続き、全国にその流を広める事はなく、一部の藩で伝えらる事になりました。諸派である雪荷派は、豊臣方の武将に多く広まりましたが、徳川の代には一時の隆盛は失われます。また道雪派も各地に広まりますが、同じく諸派である印西派の様には広がりませんでした。
 日置流印西派の流祖である吉田源八郎重氏(一水軒印西)は、主君を度々変えながら各地を転々とします。結局は京の伏見に在し、参勤交代で江戸に上がる大名に弓の指導を行っていました。その内に江戸に上がった大名から印西先生の話が家康の耳に入り、印西先生は家康に認められて徳川家の旗本・弓術指南役となます。やがて日置流の中でも当流となった印西先生の弓を学ぼうと、全国から藩を代表する射手が集まりました。その射手が藩元に帰り印西派弓術を根付かせて、印西派はあっという間に全国に広がったのです。印西先生直系の日置流印西派は「日置当流」と呼ばれ、備前岡山の印西派も将軍に特別に許されて日置当流を名乗ります。ちなみに岡山の印西派は、印西先生の実弟(吉田五兵衛定勝)がその流祖です。

 上記のように、日置流印西派と言っても、各地(藩)で少々違った様相を呈していた事が予想できます。日置当流、岡山日置当流、広島系、熊本系、遠州系、越前系、会津系、薩摩系・・・。しかし、現在は日置流印西派と言えば大多数が岡山日置当流系の派生で、これは浦上栄範士と、栄先生の厳父直置先生の活躍が大きく関わっています。しかし、一部地域においては脈々と江戸の世から続く印西派を継承している場合もあり、よく調べなければならないポイントです。浦上直置先生は岡山の日置当流師家である徳山文右衛門貴徳先生の元で修行し、後に東京で活躍されます。浦上栄先生は直置先生(明治38年没)の元で修行し、明治45年には徳山勝弥太師家(文右衛門貴徳先生のご子息)より免許皆伝を受けます。従って、浦上父子の広めた日置流印西派の根本は岡山の日置当流であると言えるのです。なぜ回りくどい言い方をするかと言えば、特に浦上栄先生が広めた日置流印西派と、岡山の日置当流では引き方が異なっているからです。打起しに差異が認められ、三分の二も岡山では取りません。これは浦上直置先生が、徳山師家から特別に許されたやり方なのです。従って、敢えて分類するならば、日置当流浦上系とでも言うべきなのでしょうか?

 話が急に飛びますが、浦上栄先生より「六十ヵ条弓目録」「無言歌」「神道の巻」の皆伝を受けた稲垣源四郎範士は、お元気な頃には年に一回程度、日置当流の源であると言える、岡山の徳山弓道場を訪問していたとの事です。あくまでも私の考えですが、これが本来の流派を学ぶ者の姿じゃないのかなと思い、強く共感致しました。「是非岡山の日置当流に触れてみたい・・・。」と思っていたところ、機会に恵まれまして、岡山の徳山弓道場へ訪問する事が可能となりました。未熟で浅学非才の身分ではありますが、思い切って決心し、実際に岡山の地まで行って参りました。そして、短い時間(とは言え、三日間の武者修行!?)ではありましたが、様々な勉強をさせてもらい、非常に有意義な時間を過ごすことが出来ました。備前日置流印西派(日置当流)の源流に触れることが出来たんじゃないかなと思っています(あくまでも私の感想ですが・・・)。

追記:徳山弓道場で弓を引いてから数年たちました。徳山師家の教えや、先代師家の奥様の話、徳山道場の方々の様々なアドバイスは、データとしてちゃんと残してあります。しかし、現在の私の弓と、徳山道場とは切り離して考えて頂きたいと思います。徳山道場の門人でもありませんし、徳山道場の方々に要らぬ迷惑を掛けたくありません。様々な意味を込めて、自分の引く弓の非はあくまでも自分に責任があります。2007.02.10) 


詳しい日置当流の歴史につきましては、下記Siteをお勧めします。
Heki_To_Ryu〜日置當流の歴史〜

また、ちょっと深くて諸説織り交ぜた印西派の歴史に関心ある方は下記ページへどうぞ。
日置流印西派(その2)


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