後楽園弓道射会 (現在休止中)


(平成20年3月2日)

 日置流印西派(その2)の項を作成しているときに、後楽園弓道射会や徳山道場の方々の射を見てみたいという衝動に駆られまして、何回か諦めかけたのですが結局岡山へ足を運んでしまいました。


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 後楽園の正門(県立博物館の東側)を入ってすぐに守田さんにお会いすることが出来まして、矢渡しの後に行われる「七五三的」という演武の大元になった古文書の解説文を頂きました。その後も、江戸時代まで西日本と東日本では(歩射の稽古での)射距離が違っていたことや、西日本の中でも各藩によって射距離がまちまちであったということ。藩公式の弓場としては後楽園の弓場が日本最古であり、唯一残っている貴重な史跡であることなどのお話をしていただきました。弓場(正門を入ってすぐ左手、観射亭のあたり)に着きますと徳山道場に足を運ぶ際にいつもお世話になっている方と会うことが出来まして、色々とお話をしました。年々この射会の参加者が増えており、決勝が終わるまでかなりの時間が掛かるとのこと。射会上位男女10名による「那須与一に挑戦」(後楽園の中央に位置する沢の池に小舟を浮かべ扇の的を上げてそれを射る。観射亭から一番近い島の前に小舟を浮かべます。地図を動かしてみて下さい。)では、列車の都合で最初の2・3人だけしか見ることが出来ませんでしたが、一番最初の方が見事扇の的を射抜いてくれてちょっとラッキーでした。

 徳山師家の矢渡し、岡山大学鹿田(医・薬学系)弓道部による七五三演武に続いて、女性の部から試合が開始されました。基本は弦音打起しで体配は自由、自分の流派の遣り方でやっても良いとのこと。明治・大正期の武徳会の試合もこんな感じだったのかな?と考えたりもしました。岡山市の土地柄(場所が場所だけに・・・)か多くの(殆どか?)方が斜面打起しで感慨深いモノがありました。特に徳山の男性陣は裸足であり(武道の基本。剣道場では靴下・足袋は脱がされます。いつから足袋の着用が一般化したのでしょうか?)、一部の方は割り膝にて行射されていました。羨ましいな・・・。しかし、割膝で弓を引くと注目が集まるので私がやると八割方ビクを起こすと思われます。女性の決勝戦を終えて昼食休憩をとり男性の決勝戦が開始されました。男女ともに上位10名を決定させるのですが、男子の決勝戦は白熱の試合展開となりました。なかなか外れないのです。特に最後まで残ったお二方は集中力が持続して、見ているこちらまで緊張してしまう試合運びでした。嫁さんに無理を言ってでも見に行った価値は充分にありました。射のイメージの再構築をすることが出来、徳島に帰ってきてからも良い感じが現在の所は続いています。

後楽園弓場(ゆみば)

射小屋外観

射小屋内

古式安土

古式安土全容

 1689年の後楽園一期工事完了時には出来ていたとのこと。正門を入ってすぐ左に殿様が藩士の行射を上覧する観射亭があり、弓を射る射小屋が東を向き、その正面に小山のような安土があります。明治までは小山のような(饅頭型)の安土に1つの的を掛け、後楽園の射小屋は5人立ちなので、大前(オオマエ)〜大後(オチ)の5人がその的目がけて射込んでいました。昭和20年6月の岡山大空襲で後楽園殆どの建物が焼失しましたが、安土は戦禍を免れ現存しています。射距離は手先から13間半(空襲で焼失した戦前の徳山弓道場も手先13間半であったそうです)。現在全弓連が定める近的の射距離は手先15間です。昭和35年に観射亭・射小屋は復元されました。しかし、射会を拝見していたところ、射小屋はどうも再建時に弓を引く想定をしていなかったらしく、立つ位置に寄っては打起し時に弓が天井につかえていました。改善されれば良いですね。

・関東と関西の射距離の違い
守田さんの話しによると、江戸時代の正式な弓場の射距離は関東と関西で違っており、関東では手先16間半。関西では手先13間半であったとのことでした。射距離が全国的に統一されたのは明治に入ってからで、安土に多くの的を掛ける遣り方も明治に入ってからだそうです。
参考文献
備前岡山藩の弓術 吉田家御奉公之品書上より 守田勝彦 編著 吉備人出版
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